自分のようなものでも

次の芝居のことをそろそろちゃんと考えなくてはならなくなり、おまけに妙に仕事が忙しい日が続いて、睡眠時間がふだんより短くなりがちな一週間だった。

で、今朝、鏡をなにげなく覗いてみたら、老人がいた。疲れがまともに顔に出る歳になったようだ。すでに1年ほど前から、額にしわが常駐している。

「実年齢より数年(人によっては10年以上)若いつもりでいる」というのが現代人の常態だと思うが、たまに何かの拍子で己のリアルに直面させられることがあって、そんな時、物悲しくも少しほっとした気持ちになる。なぜだろう? 自分に対して見栄をはらなくてもいい状態が一瞬実現するからか。それとも落魄願望のようなもの? まあ年をとればそれだけ終わりの時が近づくわけで、そうかお役御免になるのも自分が思うほど遠いことではないんだ、と気づいて肩の荷が軽くなったように感じるのだろう。むやみにがんばらずとも、時間というものが一定速度で確実に死にむかって自分を運んでくれる。ベルトコンベアーに乗っているような安楽さ。ということは、ふだんはその上でむなしい逆走を試みているわけか。

いずれにせよ、ああ俺年とったなあ、というつぶやきに、ある種の甘美なものが含まれていることは間違いない。本当に死が目前に迫ってきたらそう呑気にかまえてもいられないだろうが。だいぶ近づいたけど、まだもうちょっと先、ぐらいの距離感がいいんでしょうね、きっと。