備えあれば

ズバリ。大木は作品を完成させる気などないと見た。そうでなければ、あのぐだぐだな演出っぷりの説明がつかない。いまだにやること毎日変わるし。「盲人のための演劇」というルールを設定しておいて、その中でいろいろワークやら思考実験やらしてみたいだけではないか。最終的に作品としてまとまるかどうかは二の次で。

ひょっとしたら、客となるべき「盲人」も実在しない可能性がある。はなから探すつもりもなくて。たった一人とはいえ本当に誰かに披露するのであれば、もう少し責任をもって稽古に取り組んでもいいはずだ。さんざん団員をおもちゃにして遊んだあとで、さらに福島なら福島にまで引っ張ってきたあげく、土壇場で「おかしいな…来ませんね」とかなんとか空とぼけて、それで済ませるつもりではないか。やりかねん。これだ。確かに非生産的で無意味。お見事。

以上を最悪のシナリオとして想定しておこう。あとで途方に暮れないように。

とにかく、稽古場でじりじりさせられたら負け、という気がしてきている。何と戦っているんだ。

いや、むしろ考えようによっては、こちらのほうが気楽で結構かもしれない。結果を度外視して無責任に稽古場でお遊戯やってればいいわけだから。人知れず福島に行って人知れず帰ってくるというのもアホみたいでよい。これならあれだ、「中央」から聖地福島にぞろぞろ群れなして押し寄せる、あのおぞましい「文化人」巡礼団の一員にもならずに済む気がする。そんなことになったらそれこそご先祖に顔向けできない。