抜書き

「<自然状態の神話>は、いつの世にも、現存の社会体制を人為の爛熟の生んだ擬制と考え、これを本来の人間のあり方にふたたび戻そうとする人間の欲求とむすびついてきたのであり、…」

「この人間の始原のありかたに立ち戻り、以て文明の現実を虚偽とし、文明のあるべき姿を模索しようとする努力は、遥か、タキトゥスの『ゲルマーニア』にさかのぼるもので、要は人間が、たえず、<黄金時代>を過去に求めようとする欲求に発しているし、単純や無垢に帰ろうとする人間の、遡源欲に原因しているといえよう。」

「ところが、この、彼らがそこへ回帰しようとめざした当の<古代>そのものが、すでに始原に回帰することを求めていたのであって、人類の過去にあったとされる<黄金時代>の夢を求め、その回復をめざして、幾多の<原始主義>を古代においてすでに作っていたのであるから、人間が文化的動物になったとたんに、自然状態の神話は、人間につきまとう美しい夢魔になったといって良いのである。」

由良君美「自然状態の神話」『椿説泰西浪漫派文学談義』

こないだ買った本から、気になったところを抜書き。

自然状態にあこがれるというふるまいそのものが、すぐれて人間的・文化的な営みであり、言うなればある種の観念の産物にすぎないという、考えてみれば当たり前のお話。

引用元の文章はおもに18世紀~19世紀初頭のロマン派の思想家・芸術家を扱っているのだが、彼らの末裔とおぼしき人々は現代でも身の回りにけっこういて、それはそれでうるわしきこと、尊いことだとは思うのだけれど、その場合、えてして上に引いたような歴史認識(偉そう)に乏しかったり、そういうのを考えないようにしているふうに感じられることも多いのは、ちょっと嫌だなあと、微温的文明派の僕などは思うのでした。

まあ、<自然>的なものに触れるとほっとするけどねー。でもある種の錯覚なんだろうなあ、きっと。