夜回り先生(うそ)

今週から土日の稽古が朝10時~夕方5時半になった。これで1週間のうち朝寝できる日が消滅。時間も長くなった。月~金のwage-workerにはちとつらい。

時間変更後1回目の昨日は、通常の立ち稽古の前後に、台本とは関係のないいくつかの「ワーク」をやった。本来ならこういう何の役に立つのかわからない、取ってつけたようなトレーニングの類はあまり好きではないのだけれど(ほらなんか、それ系の団体の「修行」みたいで気持ち悪いじゃないですか)。気分転換以上の意味があるとは思えない。ただ稽古時間がこれだけ長いと、立ち稽古だけではうんざりしてくるのも確かなので、息抜きという意味でなら歓迎である。その分稽古を短くするのはもっといいと思うが。

「ワーク」の内容はというと、なんか誰かに体を揺らしてもらって、こわばってるところがないかチェックするのとか、目隠しをして他の人に誘導してもらって歩くのとか。「自分の体の状態がどうなっているかに目を向ける」「体の声を聞く」みたいな主旨でしょうか。これまたそういうのが超苦手である。だから何なんだと思ってしまう。芝居なんてしょせん表面に現れるものがすべてなんだから、例えばある姿勢で、ある動きを、ある速度でやらなきゃならないとしたら、それは体の状態なんかおかまいなしに、やるしかないのである。このやたらおのれの心身状態にばかりこだわる傾向って、役作りにおける内面偏重と根っこが同じではないか。自分。自分。

などということはもちろん稽古場では言わない。今回は演出の方針に従うと決めたので。その割にいろいろと口出ししてるじゃないかと言われそうだけど。

立ち稽古もいちおうやった。第四場、アンティゴネー絶唱のシーン。しかしどうもよろしくない。何というか、アンティゴネーの声に「強度」が足りない。

この作品の登場人物のうち、アンティゴネーとクレオンはともに「過剰な人」である。二人とも度を超えて何かに取り憑かれている。前者は感情にもとづく古代的な血族の論理に、後者はよりモダンな法的合理性・国家の論理に。死者の世界と生者の世界と言い換えてもよい。向かうところは真逆だが、両者とも、のほほんと事なかれ的に日をおくる市民社会(?)から見れば不穏当な人物である。

この二人の過剰さは奔出する言葉となって現れる。そして、言語以前の潜勢態のうちにまどろむ共同体を上下両側から挟撃し、これに揺さぶりをかける。否応なくテーバイの秩序は地すべりを起こさざるを得ない。

話がそれるが、一般にこうした状態が実現するためには、一方向的でない、拮抗する「対立の対話」が形成されていなければならないだろう。でなければ送り出された大量の言葉は受け手を失い、あらかじめ周到に用意された排水路を伝ってどこかへ流れ去ってしまう。いったんこの「対立の対話」が現出すれば、あとはその周囲にさらに無数の言葉たちが黴のように湧き立ち、これに動かされて世の中がしずしずと、あるいは急速に移り変わってゆく。好ましい方向にであれその逆であれ、世界を変革するのは常にこうした共鳴作用の起点となる、空気を読まない「法外」な言葉を措いてほかにないといえよう(悪い方向のことも多いでしょうけどね)。

さて、戯曲の第四場は、アンティゴネーの言葉の強度が最高潮に達し、ついにクレオンのそれを凌駕する場面である。両者の均衡が破られ、物語がカタストロフへ向かう。言葉つまり台詞。だから、この場面のアンティゴネーの台詞がへにょんへにょんだと、文字通り話にならないのだ。特に今回は目が見えない人相手に上演するわけだから、「音」以外の表情だとか身振りだとかを援用するわけにもいかない。別に大きな声ではきはきと、と言いたいわけではないが、何を迷っているのか、今の状態では戯曲の言葉に声が負け負けである。

…という趣旨のことを稽古の合間にひばりん(しつこい)に説いて聞かせたのだが、理解していただけただろうか?

もっとも昨日は吉本さんも調子が悪いようだった。おととい稽古を休んだことも含めて、これはきっとロッソのせいに違いない。あいつ~。