宙ぶらりん

アンティゴネーという人の言動を見ていると、若き柳田國男の手になる例の新体詩

 

うたて此世はをぐらきを

何しにわれはさめつらむ

いざ今一度かへらばや

うつくりかりし夢の世に

 

を思い出す。兄の弔いうんぬんはただの口実で、要はとっとと死にたいだけなんじゃないのか。

気持ちはわかります。ひじょーに。俺もうつし世におさらばして、早く帰りたいと思うことがしばしばです。

ただ、「うつくしかりし夢の世」というのは多分まやかしなんでしょう。それこそ生きている人間のための。

帰る場所などありません。残念。

 

 

 

 

 

俺も連れてってほしい

朝8時ごろに大木からメールが来て、今日の稽古を休むという。稽古場はキャンセルしてないので使いたい人はどうぞとのこと。演出からの素敵なプレゼントと解釈して、ありがたくサボらせてもらった。

 

目が見えない人(特に生まれつきそうな人)が持つ人間のイメージには、たぶん顔がないだろうと気づいた。のっぺらぼう。社会生活を送るうえで、これはかなり決定的な違いになるのではないか。人体に「顔」と名付けられている部分があることは理解しているだろうけど、それは目が見える人にとっての「顔」とはまるで意味が違うはず。

好悪の対象としての顔、内面を映す鏡としての顔、意志疎通のインターフェースとしての顔、アイデンティティ証明としての顔。こうしたものとさっぱり縁が切れているわけだ。他人の顔色を意識しないで済むのは、少しうらやましい気もする。その代わりにものすごく声色を窺ったりするのかもしれないが。

俗っぽいことを言えば、目が見えない人にモテる人ってどういうタイプだろうか。調査して、傾向を分析してみると面白そうだ。目が見える人の場合、やはり見た目の良し悪しというか好みは馬鹿にできないわけで、このファクターがなくなった時にどう傾向が変わるのか、それとも変わらないのか。容姿の代わりに、声とか、体臭とか、あるいは手触りとか、やはり身体的な特徴がものを言うのか。それともより内面重視だったりするのか。まあ、こういうことは人によって重きを置くポイントが違うのが当たり前なので、盲人の場合も一概には言えないのでしょうけれど。

 

夕方近所のロッテリアに入ったら、アウトドアないでたちをした30~40代くらいの女性の一団がいて、がやがやとおしゃべりをしていた。10人以上いた気がする。山登りの帰りだろうか。みなさん化粧っ気もなく髪なんかもぼさぼさだったが、とてもハツラツとして楽しそうで、なんかうらやましかった。

 

9月7日時点

何かとしんどい一週間だった。風邪もようやく治まってきて、少し鼻がぐずつく程度にはなった。体調が思わしくないと仕事と稽古のかけもちが一層こたえる。もう仕事やめたいやめたい。

ロッソがまだ不在なわけだが、それに伴って、稽古場に男が俺一人なことに今日気づいた。これが楽しいような、微妙につらいような感じである。いや、特に何がどうというわけではないのだけれど。吉本さんが焼いて持ってきたチーズケーキ的なものはおいしかったんだけど。ロッソは稽古場でほとんど口を開かないやつだが、それでもこちらの投げた無駄なボールのいくつかを、何がしかのやり方で受けとめてくれていたのかしらんと思わないでもない。出来れば戻ってほしいところだ。

伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』を読む。昭和前期までの日本の文士というのは、相当な被害者意識の中で生きていたようだ。個人的には、いま演劇人一般がおかれている状況が、この時代の貧乏文士のそれに重なって見える。世を呪うボヘミアン気取り。作品の享受者=同業者またはワナビー。求道自慢。お気の毒さま。

 

備えあれば

ズバリ。大木は作品を完成させる気などないと見た。そうでなければ、あのぐだぐだな演出っぷりの説明がつかない。いまだにやること毎日変わるし。「盲人のための演劇」というルールを設定しておいて、その中でいろいろワークやら思考実験やらしてみたいだけではないか。最終的に作品としてまとまるかどうかは二の次で。

ひょっとしたら、客となるべき「盲人」も実在しない可能性がある。はなから探すつもりもなくて。たった一人とはいえ本当に誰かに披露するのであれば、もう少し責任をもって稽古に取り組んでもいいはずだ。さんざん団員をおもちゃにして遊んだあとで、さらに福島なら福島にまで引っ張ってきたあげく、土壇場で「おかしいな…来ませんね」とかなんとか空とぼけて、それで済ませるつもりではないか。やりかねん。これだ。確かに非生産的で無意味。お見事。

以上を最悪のシナリオとして想定しておこう。あとで途方に暮れないように。

とにかく、稽古場でじりじりさせられたら負け、という気がしてきている。何と戦っているんだ。

いや、むしろ考えようによっては、こちらのほうが気楽で結構かもしれない。結果を度外視して無責任に稽古場でお遊戯やってればいいわけだから。人知れず福島に行って人知れず帰ってくるというのもアホみたいでよい。これならあれだ、「中央」から聖地福島にぞろぞろ群れなして押し寄せる、あのおぞましい「文化人」巡礼団の一員にもならずに済む気がする。そんなことになったらそれこそご先祖に顔向けできない。

 

 

だらだら

風邪で仕事も稽古も休んでしまった。頭がぼんやりして何も考える気にならない。録画してあった『梅ちゃん先生』を2回見た。

 

今回の公演にどんな意味があるのか、何のためにやるのか、まだ考えあぐねている。一貫性のあるストーリーになってくれない。

こないだ大木に面と向かって尋ねてみたら、「意味があるっていやじゃないですか」「生産的なことなんてやりたくないじゃないですか」みたいな返事ではぐらかされた。嘘をつけ。本当に非生産的なことがやりたければ、精魂込めて作った芝居を近所の空地かどこかで、一匹の猫に向けて上演すればいいだろう。盲人たら福島たら、いかにも意味ありげなアイテムを散りばめてあるから腹が立つのだ。

「ほら、あとは自分たちで考えてみてください」とか言われてるようで気に食わない。教師づら。大木のくせに生意気である。

言わないことではない

朝起きたときからのどがイガイガして、昼過ぎには頭が重く、寒気もしていた。

なんとか仕事と稽古をやり過ごして(稽古はちょっぴり早引けして)、たったいま家にたどり着いた。

体温を測ってみる。38.2℃。まずまずだ。

 

人間はなぜ死者を弔いたいと思うのだろうか? たぶん、ただ死んだだけでは、死んでいないからだ。死なせたいのだ。ただの死は、人間の手に余る。

葬送とはひとつの便法、卑怯なごまかしである。

早いもの勝ち

ロッソが稽古に来なかった。

朝のたぶん9時ごろにメールが来て、今日の稽古を休むという。行っても皆に迷惑をかけるだけだから、と。東北(秋田だっけ?)の実家にも里帰りしたいと。

たぶん、いや絶対、昨日の重大発表のせいだろうな。稽古のあと着替えていた時にも、納得がいかないみたいなことをぼそりと言っていたし。これ以前にもだいぶ不満がたまっていたのだろう。芝居バカだからねえ…。

メールの末尾に落ち着いたら戻るとあったが、いつになることやら。このままフェードアウトされる可能性もある。しかし、あえて連絡を取って戻るよう説得する気にもなれない。気持ちは分かるからだ。

とりあえず粛々と作業を進めておくしかないか。しかしなんかこの青春な展開、劇団ぽい~。若返るわ~。