楽しみは尽きない

また重大発表がやってきた(もうこれで最後にしてほしい)。

上演は福島でやりたいのだそうだ。福島県。やりたいというか、もうそのつもりなんだろう。7月だかに一人で現地に乗り込んで、取材?下見?も済ませていたらしい。だったら始めからそう言ってくれよ。

稽古場では無駄な抵抗を試みたが、例によって譲らない。もういちいちケチをつけるのにも疲れてきた。

というわけで、現状で今回の企画の要点をまとめてみると、

・一人の盲人のために上演する。

・上演場所は福島である。

・演目は『アンティゴネー』である。

なんだこの三題噺。各項目の間にどんな関連も見つけられない。バラバラ。なのに主宰の口ぶりだと、このうちのどの要素が欠けても全然いけないらしい。

ほんとに、これは一体なんなんだ? わしらは何をやろうとしてるんだ?

なんとかつじつまの合う説明というか意味づけを、まずは自分のためにひねり出したいところだが、今日はもう疲れてしまった。寝る。

遠人愛

このところなんとなくギリシアづいている。きっかけはもちろんいま稽古中のお芝居。呉茂一の『ギリシア神話』を読み返してみたり。

直接の呼び水になったのはジョージ・スタイナーの『アンティゴネーの変貌』。ウィキペディアで「アンティゴネー」を調べてみたら書名が挙がっていたので、何かの参考になるかと思って読んでみたのだが、これはむしろアンティゴネーを一題材としたヨーロッパ文化論だった。

何らかの政治的・文化的な転換期や危機の時代を迎えるたびに、ヨーロッパの思想芸術が繰り返し「ギリシア的なもの」に回帰し続けてきた、ということが書いてある。ここでいうギリシア的なものとは、原型としての「ギリシア神話」。以降の全ヨーロッパ文化は、この時代に出来上がった、ごく限られた数の神話的類型の模倣・書き換えに過ぎず、その上に新しいものは何一つ付け加えていないと。こうしたことをうんざりするくらいの実例を挙げて論じている。

なるほど、古代ギリシア文化というのは、後代の人間がこぞってお手本にしたくなるくらい、そんなにも求心力の強い魅力的なものなのか。それに原型を知っておけば、後の時代のものを見たり読んだりする際のアンチョコになるのではないか。そう思い立って、分厚い神話の本をひっくり返してみたりしている。しかし、前に読んだはずの箇所の内容もほとんど覚えていないのには愕然とした。

たしか江戸川乱歩も一時期ギリシアにはまって、ローブ古典叢書を片っ端から読んだとか書いてたな。そんな真似は到底できない。というか、逃避してないで台本を読め。


昨日は稽古休みで、12月に客演する芝居の打ち合わせだった。憧れのあのお方との二人芝居(しかし人妻)。やほーい! 


人生は陽気に

ものすごく体がだるい。ほんとにまだ火曜日なのか。土日の長時間稽古が効いてるな。

一回以上稽古したシーンはいちおう形になってきている。ただ、その形がほんとに適切なのかどうか、ジャッジする人が誰もいない。

別にどうでもいい気もしてきた。どうせ客はひとりなわけだし。

しかし考えてみれば、そのお客の人がやって来たとして、どう挨拶したものだろうか。「あなたが私たちの道楽の実験台になってくださる親切な盲人さんですか。申し訳ありませんお忙しいのに」以外のニュアンスが出せそうにない。「盲人さん」とかほんとに言ってしまいそうだ。いや、実験台ですらないのかも。観察されるのはお客のほうではなくて、「盲人のために演劇を上演するという状況におかれることで問い直される私たち自身のあり方」かなんかなわけだから(だろう?)。客は徹頭徹尾ただのダシ。いい面の皮である。

北嶋美雪編訳『ギリシア詩文抄』より

岩と波白ぐ海との子

 ………

わらべらの心を誇りかにする

お前、海の法螺貝

                              アルカイオス

 

 

われを遮り とどむるは

 四囲にどよもす

  紫なす海の 潮騒の音

                               シモニデス

 

 

夕星よ

光をもたらす暁が

散らせしものを

そなたはみなつれ戻す

羊をかえし

山羊をかえし

母のもとに子をつれかえす

                                サッポオ

 

 

運悪く醜女の女房を娶った男

灯ともしどきにランプをつけりゃ

いましも無明の闇を見る

                                パラダス

 

 

ゼノニスは ひげ生え揃うた

文法教師がお抱えで

息子を よろしくお願いと

言われて こちらが それではと

夜ごと 練習おこたりなく

させる相手は だれあろう

名詞変化に 接続詞

破格 お次は 活用形

                              ルゥキリオス

 

 

女が数人、オリーヴの樹に縊れているのを見た時のこと、

「どの樹にもこんな実が成ればよいのになあ」

                          シノペのディオゲネス

 

 

人間にとって何よりもよいのは生まれて来ないこと、

またまばゆく輝く陽の光を目にしないこと。

だが生まれてしまったからには、できるだけすみやかにハデスの門をくぐり、

こんもり盛られた土の下に横たわること。

                               テオグニス

 

 

 

 

 

 

夜回り先生(うそ)

今週から土日の稽古が朝10時~夕方5時半になった。これで1週間のうち朝寝できる日が消滅。時間も長くなった。月~金のwage-workerにはちとつらい。

時間変更後1回目の昨日は、通常の立ち稽古の前後に、台本とは関係のないいくつかの「ワーク」をやった。本来ならこういう何の役に立つのかわからない、取ってつけたようなトレーニングの類はあまり好きではないのだけれど(ほらなんか、それ系の団体の「修行」みたいで気持ち悪いじゃないですか)。気分転換以上の意味があるとは思えない。ただ稽古時間がこれだけ長いと、立ち稽古だけではうんざりしてくるのも確かなので、息抜きという意味でなら歓迎である。その分稽古を短くするのはもっといいと思うが。

「ワーク」の内容はというと、なんか誰かに体を揺らしてもらって、こわばってるところがないかチェックするのとか、目隠しをして他の人に誘導してもらって歩くのとか。「自分の体の状態がどうなっているかに目を向ける」「体の声を聞く」みたいな主旨でしょうか。これまたそういうのが超苦手である。だから何なんだと思ってしまう。芝居なんてしょせん表面に現れるものがすべてなんだから、例えばある姿勢で、ある動きを、ある速度でやらなきゃならないとしたら、それは体の状態なんかおかまいなしに、やるしかないのである。このやたらおのれの心身状態にばかりこだわる傾向って、役作りにおける内面偏重と根っこが同じではないか。自分。自分。

などということはもちろん稽古場では言わない。今回は演出の方針に従うと決めたので。その割にいろいろと口出ししてるじゃないかと言われそうだけど。

立ち稽古もいちおうやった。第四場、アンティゴネー絶唱のシーン。しかしどうもよろしくない。何というか、アンティゴネーの声に「強度」が足りない。

この作品の登場人物のうち、アンティゴネーとクレオンはともに「過剰な人」である。二人とも度を超えて何かに取り憑かれている。前者は感情にもとづく古代的な血族の論理に、後者はよりモダンな法的合理性・国家の論理に。死者の世界と生者の世界と言い換えてもよい。向かうところは真逆だが、両者とも、のほほんと事なかれ的に日をおくる市民社会(?)から見れば不穏当な人物である。

この二人の過剰さは奔出する言葉となって現れる。そして、言語以前の潜勢態のうちにまどろむ共同体を上下両側から挟撃し、これに揺さぶりをかける。否応なくテーバイの秩序は地すべりを起こさざるを得ない。

話がそれるが、一般にこうした状態が実現するためには、一方向的でない、拮抗する「対立の対話」が形成されていなければならないだろう。でなければ送り出された大量の言葉は受け手を失い、あらかじめ周到に用意された排水路を伝ってどこかへ流れ去ってしまう。いったんこの「対立の対話」が現出すれば、あとはその周囲にさらに無数の言葉たちが黴のように湧き立ち、これに動かされて世の中がしずしずと、あるいは急速に移り変わってゆく。好ましい方向にであれその逆であれ、世界を変革するのは常にこうした共鳴作用の起点となる、空気を読まない「法外」な言葉を措いてほかにないといえよう(悪い方向のことも多いでしょうけどね)。

さて、戯曲の第四場は、アンティゴネーの言葉の強度が最高潮に達し、ついにクレオンのそれを凌駕する場面である。両者の均衡が破られ、物語がカタストロフへ向かう。言葉つまり台詞。だから、この場面のアンティゴネーの台詞がへにょんへにょんだと、文字通り話にならないのだ。特に今回は目が見えない人相手に上演するわけだから、「音」以外の表情だとか身振りだとかを援用するわけにもいかない。別に大きな声ではきはきと、と言いたいわけではないが、何を迷っているのか、今の状態では戯曲の言葉に声が負け負けである。

…という趣旨のことを稽古の合間にひばりん(しつこい)に説いて聞かせたのだが、理解していただけただろうか?

もっとも昨日は吉本さんも調子が悪いようだった。おととい稽古を休んだことも含めて、これはきっとロッソのせいに違いない。あいつ~。

 

 

 

 

アニマルズ

猫好きの人が増えた気がする。というより、その旨を人前で表明する人が増えた。その場に同好の人間を見つけると(これがまたいるんだ必ず)、手をとりあって聞こえよがしに「猫かわいい」「猫かわいい」を連呼してくる。はいはいわかりましたよ。猫のことなんかどうでもいい奴だっているんだから、ちったあ胸の内にしまっとけ。

この愛猫者の氾濫は、おもちゃみたいなカメラを首から下げて外をほっつき歩く若い娘が増えたことと、なにか相関関係にある現象という気がしてならない。

背景事情はわからないでもない。猫はいまや、おおっぴらに人前でハァハァしてみせる対象として、かなりの安パイだろうからだ。これが人となるとそうはいかない。なにかと差し障りが出てくる。いま女性がいる前で、本人もしくは誰か特定の女性をネタにハァハァすることは、完全に「アウト」である。男女を入れ替えたパターンはまだ社会的に許容されているように見えるが、これだって内心は不快感を持たれることを覚悟しなければならない。ましてその対象がジャニタレだとしたら、万事休す! この不快感は嫉妬みたいなものとは少し違うように思う(余談だが、しかも自慢と取られても困るが、私のような者でも若いころ、さして親しくもない、特段の好意も持っていない異性から、自分をネタにしたソフトハァハァ的妄想を面と向かって聞かされたことがあり、それはけっこうに気持ちの悪い経験だった。死ねよと思った)。

そこで猫ですよ。これなら誰も傷つけない。痛いやつとも思われない。思うさま人前で、よだれを垂れ流してみせることができる。同意を求めることができる。なんなら「心のやさしい人」という高評価までもらえかねない。人間の子供でもかまわないのかもしれないが、男性の場合は幼児性愛者と間違われるリスクが発生する。やはり連帯するなら猫だ。

おす。かなり無理があることは分かっている。たかが猫相手に大人げないことも。だが、それにしたってなぜああもあからさまなんだと、慎みを捨てられない私のような明治生まれの人間は思ってしまうのである。人は本来、公衆の面前でハァハァしたい生き物なんだろうか?

打ち入り始末記

禁酒の誓いをあっさりと破ってしまった。打ち入りだったんだから仕方ない。不可抗力だ。明日は二日酔いまちがいなし。みんなもかなり飲んでいた。

キーボードを打つ手もおぼつかないが、なんだか妙に興奮しているみたいなので、今のうちに書いてしまおう。

 

しかし、このメンツで飲むことになるとは、半年前は予想もしなかった。騒動のあと劇団に残った人間(つまり今回の参加メンバー)が揃いも揃って口の重たい連中ばかりで、稽古場で少しうんざりというか、むなしくなりかけていたのだが(気がつくと俺一人が虚空に向けてしゃべっている、ということもしばしば)、今日はみな酒が入ったこともあって、かなり騒々しい会になった。

 

とりあえずロッソの初体験話には笑わせてもらった。女ばっかりの高校演劇部で男一人て。エロゲーか。しかも本番は囚人と女看守のコスプレ、いや衣装つきという。きつい。いきなり上級編。高校時代のその一件が今のところ最初で最後で、あとは現在までずーっと何もなしというのは気の毒である。がんばってくれ。酔っ払って吉本さんにからんでる場合じゃないよ。

吉本さんは入団そうそう気の毒だったが、ロッソのねちっこいアプローチを平然と受け流していたのには驚いた。台詞の言い方のことかなにかで因縁をつけられていたようだが、それに対して、ほんとうに難しいです、でもわたし変わりたくって、ロッソさんは普段おうちとかでどんな練習されてるんですか、などとにこやかに質問で応酬していた。年相応のきゃいきゃいしたお嬢さんに見えるけれど、かなりのしたたか者という気がする。前は俳優養成所にいたらしく、こんな潰れかけの斜陽劇団に流れ着いたことに内心思うところがありそうなものだが、そんな素振りをまったく見せない。屈託のない顔をしている。そのほうがこちらとしてはやりやすい。腰の据わった日和見主義者という感じ。

それでも段々とロッソのからみ酒がエスカレートして、吉本さんにほとんど顔をくっつけんばかりになった。そろそろやばいか、でも口を出して鉾先がこっちに向いてもめんどくさいなと思っていたら、向かいの席にいた雲雀氏がいきなり手元のおしぼりをぱっと拡げて、覆うようにロッソの顔に押し当てるなり「やめてください」と言い放った。その一言でロッソは黙り込んでしまった。普段おとなしい人間が急にこういうことをするとインパクト大である。そのあとロッソはそのおしぼりで顔をごしごし拭いていた。人のだろ。

雲雀氏とも少ししゃべったが、彼女とまともに話をするのは初めてのような気もする。フジタ時代にそんなことをした記憶がない。基本的に口数の少ない、何を考えているのかわからないタイプが苦手なのだ。内容はたわいもない四方山話だったが、とりあえず意志の疎通ができることは分かった。

それで調子に乗って、話の流れで彼女を「ひばりん」と呼んでみたら、完全にスルーされた。一瞬ぴたりと止まったあと、何事もなかったようにもとの話を再開しやがった。にこりともしない。37歳の心はちょっぴり傷ついたよ。知るかぎり人から本名でしか呼ばれたことのないおぬしにせめて愛称を差し上げるところから始めようという、この親心が分からないのか。それともなんかヒバゴンみたいで嫌だったのか。

あれこれ書いたが、ほとんどの時間は大木凡人としゃべっていたと思う。それも青臭い、いまさらの演劇論を。酒が入るとどうもいかんな。正体見たり。しかも気がついたら凡人泣いてるし。え俺? 何もしてないよ!?